廃人ニート みときぃホームズ

ネトゲ

それは、選ばれしものの心に忍び寄る悪魔のささやき。

あるものは狩猟ばっかやって、あるものは転売とかやってる。

大課金時代。醜さを競い合う二つのゴミ

廃人と転売厨と言った。




あんまりうまくないなこれ…


タイトルまでは良かったんだけど…




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受験生のみなさん、センター試験おつかれさまでした。
まだ2次試験ありますよね。頑張ってください!!
大学行ってもこんな廃人ニートにはならないでね…



ってことで、今回の賢者タイム。
最近思ったこと。

世の中にあるありとあらゆる「知識」っていうもの。
今まで自分が得てきた知識っていうのは、そのほっとんどが、もともと世界に存在していて、それを自分が理解しているもの。
たとえば、そうだな、ファッションとか、勉強とか
ファッションならだいたい「お手本」的なものが存在して、それに似せたりそんな感じにしたりして。
勉強なら、教科書があって、それをどんどん進めてく。

ファッションならファッション誌とかの「お手本」、勉強なら教科書っていう、もともと完成された概念を自分に合うようにして、それを取り入れる。知識になる。

でも、ほんの少しはそうでないものもある。
例えば数学。
新しい定理は、既存の概念を駆使してつくられる。
新しい定理は、もともと世界に存在していたものではなく、人間によってつくられた、新しい知識である。
そういった、論理的思考によりつくりだされる知識もある。

もともと世界に完成された概念を自分に取り入れる方。
こちらは、もともとあった知識を自分に合うようにする、そういった点において
もともとある大きなものを、自分に合うように成形する。
高校の時に読んだナノテクノロジーの本に書いてあった用語を借りて
トップダウン式知識と名付けよう。

逆に後者。論理的思考によってつくりだされる知識。
こちらは、1から知識をつくりだす。
論理を「積み重ねていく」ということで、ナノテクノロジーの本の用語を借りて、
ボトムアップ式知識と名付けよう。

なんでこんなことって、センター試験だ。
センター試験で国語ってのがあって、
現役生の頃、バリバリの理系で、数学の定期テストの時でさえ必要な公式は自分で導出していた僕は、
暗記というものを思考力の低下を招くものとして畏怖しており、文章は常に自分に合うとこだけ拾い読みしていくような読み方をしていた僕は、
暗記を必要とする科目や、読解を主とする国語という科目がとても苦手であり、
一般的な解釈を求めるこの国語という科目には、正直必要性を感じなかったわけだ。

国語は一般的な解釈を求める科目とよく言われる。
が、この一般的な解釈っていうのがしっくりこなかった。
何を持って一般とするのか、どういう判断基準なのかさっぱりだった。
読解力ってよく言うけど、読解力って何?

また、母親が国語の教職免許をもっており、国語で悪い点数をとったときによく言われたのが
「数学も国語で考えるから、国語は最重要」
という文字列だ。
これにおいてはネットでもよくみた。
が、これもさっぱり意味がわからん。今思えば、数学の勉強をするときは、与えられた文字をそのまま概念としてとらえているのだから、読解力はほとんど必要としないはずである。

とまあ、こんな母親の話はどうでもいいとして、そんなかんじでセンター試験国語では…
浪人時でさえ72点という高得点を叩き出すことに。
200点満点な、ちなみに。

高校生・浪人生のときは、ボトムアップ式知識及び思考力を重視するあまり、国語とかの成績がとんでもないことに…
となってしまった。

で、大学入って、高校生のときとは比べものにならないくらいいろんなことを経験して、
最近センターで国語があったなぁって思い返してみたときに、

国語で必要とされる読解力・一般的な解釈というのはトップダウン式の知識の吸収力を測っていたのか、と。

文章―もともと存在している概念―を自分に取り入れる能力。
それが、国語で培おうとしている能力、つまり、
読解力や一般的な解釈ではないかと、ひらめいた。

と考えると、国語という科目の重要性がまじまじとわかってきたのである。
いままで軽視していた国語が、これほどまでに重要なことだとは。
こんな感じで論じてくれる先生がいたら、そんな本に出会ったら、国語の成績も上がってもっといい大学にいけたのかも。
でもやっぱり、母親のいってたことは屁理屈どころか論外であった。

のかもしれないけど、もっと突き詰めてみるともしかして…
一概に否定はしないことにした。




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さて、今回トップダウン式知識とボトムアップ式知識という勝手に僕がつくりだした、いわゆる「ボトムアップ式知識」について論じたつもりなわけですが、
これにひらめいたときにもう一個副産物がありまして。

こんな感じのことってそういや、
今まで与えられていた「国語という科目は何を育もうとしているのか」というもののトップダウン式知識が
自分の思考、つまりボトムアップ式知識によってくつがえされた。
ってことなんですよね。

つまり言い換えれば、
「今までの知識を自分の思考により再構築した」
ってことになりませんかね。
なると思うんですよ。
なるんですよ。

人間歳を重ねるごとに思考は高度化していきます。
「再構築」なんて言葉が出てくるなんか、自分でもびっくりです。それほど思考が高度化しているのかなって、実感できてるわけです。

で、この知識の再構築って、哲学なんじゃないかなって。
今までなんとなく感覚で哲学って言葉を使ってきたんですけど、
その「なんとなくこんな感じ」で与えられてきた哲学という言葉の意味という知識をも
再構築。

既存の知識を論理的に再構築すること。
これが哲学なんじゃないかなって。
自分なりの基準ができたわけで。

久々にでかいものひらめいちゃったなって
自分なりに満足してます。
マジ自己満足です…



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ながくなっちゃったので、メイポ関連は追記から。

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